◎第367回 佐塩の道(2)(平成30年1月25日)

生命と生活を支える 

物流と情報の大動脈に

 戦後1950年ごろに、瀬戸内海から四国へ渡る時に沿岸でよく見る光景が塩田だった。
 当時、高知県にも塩田が数多くあったことを私は知らなかった。現在では、昔のような塩田はあまり見かけない。それでも、手作りで、高級な塩が何カ所かで作られている。現在では、日常で使われているのは工業塩のようだ。
 国や地域によっては、岩塩として、内陸から取り出す天然の塩もあるようだ。しかし、日本のほかの地域も同様と思われるが、四国の場合も、道路インフラが十分でなく交通手段や物流が発達していなかった頃は、内陸に住んでいる人々は沿岸部から塩を取り寄せなければならなかった。冷蔵庫などもなかったことから、長期保存のためには塩漬けすることが欠かせない状況であったと推察できる。
 一例を挙げると、天正から慶長の年代(約400年前)には、今の高知の土佐湾に面した香南市夜須町から吉川町にかけての海岸は一大製塩地で、中心の赤岡では塩市が開かれていて、この塩を奥地に運ぶための道を「塩の道」と言っていたそうだ。塩の生産地と奥地を結ぶ重要な産業道で、塩に限らず海産物や生活物資も運搬され、相互往来の道だった。
 今でも、その土地の地形や地名により七浦往還、日浦往還、徳善往還、赤岡往選などと呼ばれ、また、「塩」「シオタキ」「塩ケ峯」などの地名も塩と関係している。
 当時は主に馬の背に塩や雑貨を積んで往来していたので、馬と旅人の安全を祈願する「馬頭観音」が塩の道沿いに祀られている。
 現在では、香美市物部町大栃から香南市赤岡町までの約30㌔の区間を「塩の道」として復元整備しているが、これはほんの一部で、物部町大栃から奥に入り、①別府の四つ足堂峠、②久保の韮生超え、③笹を超えて祖谷(いや)へと、三つの往還が四国山脈を越えて徳島へとつながり、海から山へ、奥地から浜へ、まさしく多くの人の生命と生活を支えた塩の道だった。
 当時の赤岡町には郡奉行所なども置かれ、政治、経済ともに香美郡の中心をなす地で、塩の道は物流とともに、情報(文化面)の大動脈でもあったと考えられる。
塩の道の時代には、大栃町は単なる通過点に過ぎなかった。一帯は沼地で田園が並び、山の手には4つの池があり、この水が田に引かれていた。
 1892年(明治25年)頃は、中心地にわずか4〜5軒の店があって日用品、雑貨、荒物などを売っていたが、1899年(明治32年)の道路開通とともに交通の要所となり、物資の集散地として大きな役割を果たすことになる。
 1922年(大正11年)には町の区画が整理された。1950年(昭和25年)には永瀬ダム建設工事が始まり、多くの人が流入し、大栃の町は大変なにぎわいとなった。その後、時代とともに役割も変化し、現在では、この地を歩くと昔の面影が残る程度である。忘れられかけているこの地を、塩の道保存会が中心になり官民共同で遺産として残そうとしている。先日も、一部を実際に歩きながら、その意義や観光資源としての価値を学習したところである。
 ※「塩の道」(1)は2018年1月26日(金)日付に掲載

2019年01月25日